【完全解説】よくわかる『スクウェア・エニックス』栄光と低迷の40年史 1982~2026【保存版】 - YouTube
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オープニング
ドラゴンクエストとファイナルファンタジー。 日本のゲーム士を語る上で この2つの名前を避けて通ることはできません。 才能を発掘しドラクエという国民的RPGを生み出したエックス。 自らの開発力でFFを作り上げ、世界へ飛び出したスクエア。 成り立ちも強みも 哲学も違うこの 2 者は2003年 1 つの会社となりました。 これから 20 年余り。 今スクエスは日本を代表するゲームメーカーという銃席を背負いながら重大な岐路に立たされています。 今回の動画は スクエアエニックスの歴史完全解説。 2つの原流はいかに生まれ、なぜ合併し、何を生み出してきたのか。 その反世期にわる波乱の企業士を徹底的に 解説していきます。
エニックスの誕生 (1982-1983)
スクエックスの歴史を理解するにはその 原流にある2つの会社スクエアと (01:04) エニックス各々の歩みをたどる必要があり ます。 まずは設立の古いエニックスから見ていきたいと思います。 エニックスは 1982年に福島安により東京で設立され ました。 1947年に北海道旭川市で 生まれた福島市はとにかくビッグになりたいと上昇思考が強かった人物だったようで日本大学理行学部を卒業後企業を心志してアイデアを見つけるためにアメリカや インド東南アジアを約1年間放浪した後帰国 転機となったのは1975年28歳の時の ことで江談住宅今でいうUR賃貸の秋部屋 情報士を発行する出版社団者募サービス センターを立ち上げるとこれが当たり年3億円、利益7000万円規模にまで成長します。 しかしとにかく何かの日本一に なりたかったという福島市はここで満足し ません。 情報士事業の成長に限界が見え 始めると車内に未来会議と名付けた新規 (02:09) 事業開発のプロジェクトを立ち上げの一手を模索します。 まず挑戦したのが外食産業。 持ち帰り専門の寿司店を回転してみますが、これは全くうまくいかず3ヶ月で撤退 。 そして次に目をつけたのがパソコンでした。 時はまさにIT産業が漠然とこれから 来るとつやかれ始めた時代。 その波を察知 した福島市は東芝場のオフィス コンピューターの販売大理業に参入を決め ます。 すると今度は持ち前の営業力を武器 にみるみると投格を表し、見事に国内有数 の代理点へとをし上がっていきました。 そうした流れでパソコンビジネスの最前線 に見を置く中で彼は霊媒機を迎えつつあっ たパソコンゲーム事業にも目をつけます。 こうして1982年8月に車内ベンチャー に近い形で福島市わずか3名で立ち上がっ たのがエニックスです。 これが全ての 始まりでした。 ちなみにエニックスという 写名は世界最初期のコンピューターである (03:15) エニアックと不視聴フェニックス。 その2 つの言葉を組み合わせた増語だとされてい ます。 エニックス立ち上げ福島市がまず 打った手は周囲の予想の斜め上を行くもの でした。 まず大前提として当時車内には ゲームを開発できる人間、プログラムを かける人間が誰1人いませんでした。 福島 市身もその例外ではありません。 しかし彼 はここでただ単に外注するそれだけの道を 選びませんでした。 くすぶっている若い 才能を集めればいい。 そう考えた福島市氏 が打ち出したのはフリーのゲーム開発者を 広く募る第1回ゲームホビープログラム コンテストの開催という大胆な相手でした 。 フェニックス自身はソフトの開発を担わ ず販売と候補に徹するパブリッシャーとし て収益を狙う。 そしてコンテストを通じて 才能ある金の卵を発掘し、それを足がかり にゲーム業界へ参入する。 これが福島市の 作戦でした。賞金総額は300万円。 現在 (04:21) の水準で見ても相当高いその金額は若い 開発者たちへの本気の呼びかけでもあり ました。 しかし、エニックス自体に致名度 がなかったため、最初は全く応募が集まら なかったと言います。 秋葉原のPC ショップを一見一件回り、ポスターを貼っ て歩く。そんな地道な宣伝活動を積み重ね た末にエックスとこのコンテストの名前は ようやくゲームやパソコンの愛行形の間で 少しずつ広まっていきました。 この コンテストは結果的に想像をはるかに 超える成果を残すことになります。 316 本もの応募の中から選ばれた受賞作13本 がより発売されると1000本売れれば 十分なヒットとされていた当時のパソコン ゲーム市場においてそのうち11本が 3000本超えという大ヒットを記録した のです。 しかし何より重要だったのは数字 ではありませんでした。応募者の中に後に 日本のゲーム士を塗り換える2人の人物が いたのです。 ホリー裕二、そして中村光一 (05:27) 。ドラゴンクエストを生み出すことになる 才能です。 ポリジ氏はそもそも少年 ジャンプの編集部からこのコンテストの 取材をするように依頼を受けていった ライターだったのですが、自らのゲーム 好きが講じてラブマッチテニスという作品 を自分でも作って応募していました。 一方 で中村光一氏は当時高校3年生ながら 仲間打ちでは誰もが天才とを認めるほどの 技術力の持ち主でドアドアという作品で 応募し優秀プログラム賞を受賞しました。 ドアドアは後に全PC機種合計で最終的に 約8万本を売上、中村市は18歳にして 年収が1000万円を超えていたとされて います。 2人はコンテストの受賞式の場で 初めて顔を合わせます。取材するつもりが 応募者になっていたライターと天才高校生 プログラマー。 この出会いがやがて日本の ゲーム士を動かすことになるとはエックス 含めこの時はまだ誰も想像していません でした。
ドラゴンクエスト誕生 (1984-1990)
(06:32) [音楽] 1984年10月、エッは任天END堂と 定携し、ファミコン向けソフトの提供を 決定。家庭用ハードへも進出を決めます。 そしてその開発を担う存在としてまず白の 世が立ったのが中村市でした。 当時電気 通信大学に在学中だった中村市は同年4月 大学や高校時代の仲間を集め長の賃貸 マンションの一出にゲーム開発会社ソフト を立ち上げていました。 エックスの ファミコン参入第1弾として彼らが 受け持ったのはドアドアの移植です。 結果 は期待を上回るものでパソコン版の約8万 本を大きく超える約20万本のセールスを 記録しソフトは家庭用ゲーム機の開発会社 として以降一気に経営を起動に載せていき ます。 続いてエックスが移植を進めたのが 堀裕氏が1983年にPC向けに開発した アドベンチャーゲームポートピア連続殺人 事件でした。 テキスト量も絵の枚数も多い (07:38) 。アドベンチャーゲームはメモリの制約が 厳しいファミコンには不きとされていまし たが、カット数が比較的少なかった本作は その壁を乗り越え移植に成功。 こちらも 60万本という大ヒットを記録します。 このようにチンソフトの開発力、ホリーシ のゲームデザイン、そしてエックスの パブリッシャー機能。この3者が結収した 時何かが生まれるのではないかという予感 はこの時から徐々に確かな手応えへと 変わりつつありました。 現にコンテスト 入戦で顔を合わせて以降市、中村市、 そしてエニックスの創業メンバーの1人で あった千田幸信の3人は頻繁に行動を共に するようになっていて、83年には Apple主催でサンフランシスコで開か れた日本一Appleフェスに3人で視殺 に向かっています。 そこで彼らが目にした のは日本ではまだほとんど知られていない ジャンルのゲームでした。 ウィザードリー 、そしてウルティマアメリカで急速に没行 しつつあったRPGという新しい遊びに3 人は強烈な衝撃を受け、あまりにも感下し (08:45) てしまったホリは早速千田市にRPG作品 の制作を提案します。 しかし、千田市は 当時のファミコンユーザーに文字を読み ながら進めるRPGという新しい遊びを いきなり持ち込むのは難しいのではないか と考えました。 そこでまず決まったのが 先術したポートピア連続殺人事件の ファミコン移植です。 ちょうど Appleス視殺の2ヶ月ほど前にPC 向け発売されていた本作ポートピアを通じ て家庭容器のユーザーにテキストコマンド 選択式の遊びを浸透させる。 その手応えを しっかりと確かめた先に、いよいよRPG プロジェクトの開発が本格的に動き出して いくことになるのです。 日本ではまだほぼほぼ未開拓と言っていい RPGゲームを制作するにあたって シナリオとゲームデザインはホリーし、 プログラミングはチンソフトを引き入る 中村氏。 そしてキャラクターデザインには ある人物の紹介を経て当時ドラゴンボール の連載を開始したばかりだった鳥山明氏が 参加することになります。 その橋渡し役と (09:52) なったのが週刊少年ジャンプ編集部の 鳥島和彦氏です。 鳥島市はジャンプ市場で ゲームコーナーのライターとして活動して いたホリー氏の担当編集者であり、同時に 鳥山市のドクタースランプドラゴンボール を手かけた編集者でもありました。 2人の クリエイターを束ねる立場にいたからこそ この夫人が実現したわけですね。 楽曲を 担当することになった杉山高一師との縁も また思いがけないところから読まれました 。 杉山市はある時のPCゲーム森田和の 将棋を購入しどコのアンケートはきに口の 感想を書いたものの出さずに置いていたと 言います。 ところがそれを杉山市の妻が 買い物のついでに投はきを受け取った エニックス側はひが表記の名前から最初は 子供の投稿かと思ったもののよくよく調べ てみると当時すでにテレビや火用局の世界 で広くその名を知られていた作曲家 杉山光一本人だと分かって驚いたそうです (10:56) 。 これをきっかけにエニックスとの交流が 生まれRPG作品プロジェクトへの音楽 参加へと繋がっていきました。 堀裕二、中村光一、鳥山明、そして 杉山光一。 今振り返ればこれ以上ないほど のオールスターが1つの作品のもに偶然も 重なりながら集結していったのです。 1986年5月27日、エッスのRPG プロジェクトがついに姿を表します。 その 名はドラゴンクエスト。日本初の本格 RPGとして成り物入りで登場した本作は 累計150万本を売上、ファミコンにおけ るRPGカテゴリーの扉をこじけた戦車と なりました。 その確かな手応えを受け、 その後は続編が1年周期で制作されること になります。 87年1月のドラゴン クエスト2悪量の神々は240万本の ヒットを記録。 そして88年2月ドラゴン クエスト3、そして伝説へで不動の地位を (12:04) 決定付け、社会現象を巻き起こす爆発的 人気を拍します。 ドラクエ3が発売された 日は平日の水曜日だったのですが、全国各地で小中学生が学校をサボって歩道され 、文部省が全国の教育委員会に遺伝例の通達を出すという前代未問の事態にまで発展しました。 購入直後の子供からソフトを奪うドラクエ狩りが多発したのもこの時のことです。 この教訓から以降のドラクエシリーズは土日発売へと変更されることになります。 ドラクエ3の累計販売本数は 380万本。 その勢いは衰えることなく 90年のドラクエ4もまた310万本のメガヒットを記録します。 そして1991 年、エ二ックスは株式市場への上場も果たします。 不動産情報士という異業種から誕生 し、技術も人も持たないところから エニックスは設立わずか9年という スピードで1990年代初島にはすでに ゲーム業界の長事へとその姿を変えていた (13:10) のです。
スクウェアの誕生 (1983-1986)
[音楽] では、エニックス薬の裏で後の合併先、 スクエアはどのような道を歩んでいたの でしょうか? 同じく誕生から見ていきたい と思います。 スクエアの創業者宮本正文氏は1957年 に徳島県に生まれ、7高校を経て早稲田 大学に進学。父親は電油者という電気 工事会社を営む経営者で、宮本市も学生 時代からコンピューターの時間ビジネスを 行うなど商売人の血をついでいた人間でした。 1983年26歳の時には電者の 一部門としてパソコン向けソフトウェア 開発拠点を横浜市に設立します。 宮本市も また企業にあたってエックスの福島市と 全く同じ発想を働かせます。 着目したのは 大学生という若い原石です。 慶應義塾大学 ひキャンパスの目の前に40代もの最新 パソコンを自由に使える会員性を解説。 (14:17) 慶王を始め横浜国立大学や神奈川大学など 横浜周辺にキャンパスを置く学生たちが 自然と集まる場を作り上げそこで優秀な 人材を1人1人リクルートしていったんですね。 創業から半年後の84年春には サロンの会員やアルバイト募集で募った スタッフ10名によってゲーム制作事業に 参を決定します。 当初は電車スクエアの 名義でゲームをリリースしており、 パソコン向けを中心にアドベンチャー ゲームを主力に展開。 随所に アニメーションを組み込んだアルファや 日本サンライズが制作に協力した アニメーションロボットRPGチェイサー ブラスティなどを世に送り出します。 ゲームとしての完成度はまだ発展途上がらビジュアル とシナリオには確かに光るものがあり、異彩を放つメーカーとして業界内で一定の注目 を集めていきました。 しかし国内ゲーム市場の主戦場が家庭用ハードに徐々に移り、彼らも85年にファミコン3人を決めてからは苦戦が続きます。 所作はアクション (15:24) シューティングゲームのテグザ。 本作は ゲームアーツという別の開発会社がパソコン向けに開発。 多くのファンを生み出した80年代PCゲームシーンを 代表する名作ソフトです。 そのファミコン 意植をスクエアが担当して望みましたが、市場の反応は厳しいものでした。 というのもファミコンのハードスペックという制約の壁が思いの他高く原作のプレイフィール をいかに損わずに再現するかという難題に 直面したからです。 思考錯誤の末に完成し た移植版は結局一部機能の削除を余儀なく され、オリジナルの魅力が反減したものと なってしまい、ファミコンデビューは不発 に終わります。 それ以降もどう見ても シューティングゲームなのにスクエアは アクションRPGと名売っていたキングス ナイトを発売しますが、これも結果を残せず。 またファミコンディスクシステムが 登場してからは専用ソフト開発を手掛けるためにディスクオリジナルグループという スクエアが中心となったメーカー連合 (16:28) チームを結成し、10タイトル以上を勢力的に投化しますが、こちらも成功と呼べるほどの手応えは得られませんでした。 このようにスクエアにとって創業初期の数年間 は光る部分はありながらあと一歩で結果が ついてこない暗中模索の時期だったと 言えます。 同じく任天堂と提携していた、 それこそエニックスのようなチームに 比べるとゲーム開発会社として一方先を 行かれていた状態だったのです。 会社組織 が宮本市の父親の電勇者から正式に独立し 、株式会社スクエアとなったのはこうした 業績低名が続いていたさ中のことでした。 1986年5月。そんなスクエアが苦しんでいる目の前でエニックスがドラゴンクエストを発売して大ヒットを飛ばします。 他者にさらなる差をつけられた格好となり、状況はますます厳しさをマスかに 思われたその時、反対にこれを絶好の勝機と見ていた男が1人車内にいました。 坂口博信。 後にファイナルファンタジーをスクエアから世に送り出す超本人です。 坂口市は横浜国立大学在時にスクエアにアルバイトとして入り、そのまま正社員となった人物。 ドラクエを生み出した堀井氏、中村市と同様、坂口市もまた学生時代 から海外さんのRPGゲームに熱中していた1人で、スクエア入者後も アドベンチャー作品をPC向けに好んで制作していました。 しかし会社が ファミコン参入を決めてからはアクションゲームの制作を命じられ、やりたいことが できない日々にストレスを抱えていたと言います。 このスクエア上層部の判断の背景には当時の業界全体を覆っていた空気がありました。 厚みのあるストーリーが要求され、大量のテキストや画像を扱わなければならないRPGやアドベンチャーゲーム。 それをデータ容量の限られたカートリッジの上で実現し、ましてやセーブ機能を持たないファミコンで売り出すなどナンセンス。 加えてユーザーのほとんどが子供であるファミコン市場においてはシンプルなゲームでなければ売れない。 そういった考えがスクエアだけで なく業界全体の共通認識となっていたのです。 ただドラクエはそんな常識を打ち破り、ネックだったセーブ問題に関しても冒険の進行状況を文字列データに 置き換え、プレイヤー自身にメモさせる ことで疑似的にデータを保存する復活の 呪文という天才的な発想で回避し、大ヒットを記録してしまいます。 反響を 間の当たりにした坂口氏は当然いても立っ てもいられません。 開発部長という立場で もあった彼はRPG企画を会社に提出します。 これが1986年末頃のことになります。
二大巨頭 (1986-1997)
新作RPGの制作が決まったとはいえ、 当時のスクエアの業績は相当に厳しいもの。 残された予算を考えればじっくりと腰を 据えて作る余裕はありません。 与えられた 期間はわずか1年。 RPGを1から作り上げるには決して十分とは言えない時間でした。 プロジェクトメンバーの1人 で後に佐賀シリーズを生み出すことになる 川津氏は当時の状況をこう振り返ってい ます。 その時のオフィスは銀座にあったん ですけど数人が入ればいっぱいになるよう な狭い部屋で奥にプログラマーと デザイナーがいて手前側に僕や坂口さんが いてプランニングしているという状況でし た。 ゲームのタイトル名は略した時に アルファベットが2文字重なるようにという方針が元々あり、その上で ファンタジーという言葉は入れたいという意向から、最初の候補に上がったのは ファイティングファンタジーでした。 しかし同盟のボードゲームがすでに存在していることが分かり、断念。 坂口C曰惑F で始まる単語なら何でも良かったそうで 最終的に選ばれたのがファイナルファンタジーという名前でした。 会社が 崖けっプチの状況だったので最後のという 意味を込めさせたという話は後年になって お秀のついたエピソードのようで坂口市 本人がその説を否定しています。 また ドラクエの登場以降業界には次の席を狙っ (20:52) たフォロワータイトルが相つで登場してい ましたがFFチームも同期は同じとはいえ 面においては同じものを作る舞いと猛烈な 差別化意識を持って開発に望んだと言い ます。 ドラクエがプレイヤーが主人公に なりきる体験を重視していたのに対し、 FFは4人パーティーの編成からクラス 選択まで自分で設計するチームを率きる RPGとして生まれました。 ビジュアル面 でも子供受けしやすい絵柄とは一戦を隠し 等身の高いキャラクターと天野吉孝氏の幻想的なアートを採用。 システム以前に見た目の印象からして別物だったのです。 さらにRPG王道の構成をなぞるだけではない。 例えば2000年もの時を超えると いう設定の壮大さも他のフォロワータイトルにはない特徴でした。 そして1987年12月に発売を迎えた本作。 見事売上本数52万本という大ヒットを記録します。 元々この年末の タイミングに発売予定だったドラクエ3が翌年2月に延期したこともあり、その開席にもうまくはまるようにしてその時代を代表するRPGのビッグネームへと一気にし上がっていきました。 このまま歴史に 消えていく可能性あったスクエアは一転して息を吹き返したのです。 FFのヒットによって勢いを取り戻した スクエアは88年にFF2、90年には FF3をいずれもファミコン向けにリリース。 シリーズとしての自盤を固めながらその後はゲームボーイやスーパーファミコンの登場に合わせFF以外の人気シリーズも次々と生み出していきます。 川崎都市が手掛けたサガシリーズの初代魔 佐賀はゲームボーイ版だけで110万本を 売上スクエア初のミリオンセラーを達成。 FFシリーズの外伝作品として売り出された政剣伝説シリーズも国内約50万本、全 世界約70万本のヒットを記録しています。 スーパーファミコン時代に入ると勢いはさらに加速。 FFのナンバリングは91年 から約4年をかけて456と立て続けにリリースされ、4がミリオン、56 がダブルミリオンという脅異的な売上を記録しました。 そしてFF6が発売された翌年の1995年、スクエアエニックス氏。 もっと言えばゲーム士にとって1つの伝説 が刻まれます。 坂口博信、堀井雄二、鳥山明がアタックを組んだドリームプロジェクト、クロノトリガーです。 スクエアとエニックス ライバル関係にある2社の看板 クリエイターが一条に開するという全代 未問の座。 ファンの興奮は発売前から沸展 に達していました。 結果は累計販売本数500万本兆という大 ヒット。 海外では今なお日本RPGの最高傑作とは何かと問われば真っ先にこのタイトルが上がります。 さらに翌96年には、任天堂との共同開発によるスーパーマリオ RPG も実現します。 うてども うどを満足いく結果が出なかった。 かつて のスクエアを知るものには信じがい光景だったかもしれません。 わずか8年余りの 間に業界の頂点に手が届く場所まで 駆け上がっていたのです。
ここまで80年代から90年代中盤までの 2 社の動きを追ってきました。 その後 2003年4月2者は合併という道を辿どることとなるわけですが、その前にここでこの時点での2者のゲーム会社としてのスタイルの違いについて少し整理したいと思います。 まずゲーム制作のスタイルの違い。 スクエアは開発機能も パブリッシャー機能も有している一方、エックスはパブリッシャー専門で開発の多くを先日の通り、中村高一師が引き入るチンソフトなど外部デベロッパーに委託しています。 ここはそれぞれ メリットデメリットがありますが、開発機能を持たない分はグッズ販売などソフトの売上以外の収益を生み出す仕組み作りにたけていたとも言われています。 次に看板タイトル。 スクエアは FF やサガシリーズ、政剣伝説シリーズなどRPGが中心とはいえ複数人気シリーズがある一方、 エックスはドラゴンクエストのシリーズ以外ビッグタイトルと呼べる存在はありませんでした。 またドラクエは序盤の 1 から3、いわゆるロト3部作こそ1年 スパンで発売されていたものの4以降は2年3年と開発期間が長期化していきます。 これは毎年安定した売上を見込みにくいことを意味しており、経営上の安定性という観点ではスクエアに分があったと言えるでしょう。 とはいえはそれを補うように事業の多格化を積極的に進めており、その代表例が出版事業への進出でした。 91年に創刊した月刊少年ガンガンは、当初こそドラクエの新作情報や攻略情報に大きく 依存した指面作りでしたが、得意のコンテストで新人を発掘する手法をこの分野 でも持ち込んで柴田アミラを見い出し次第 に人気雑誌としての存在感を高めていきます。 南国少年パプア君、鋼の錬金術師などのヒット作が生まれ、出版事業は重要な安定収益源へと成長していったのです。 このようにスクエアとエニックスは部分部分 切り取ってみればまるで対象的な2者ですが、だからこそ後の合併で倉庫に保管するような関係性が成立することになるわけです。
スーパーマリオRPG登場から約1年後の97年1月。 スクエアは最新作ファイナル ファンタジー7をシリーズで初めてPlayStation向けに発売します。 CD-ROM 3 枚組という超ボリューム。 開発費におよそ45億円、マーケティング費に約100億円と推計される資金が投じられた本作は、あらゆる意味でそれまでのゲーム業界の常識を超えていました。 プロデューサー業に専念するようになった坂口に変わり政作全般を担うディレクターには北瀬義。 そしてキャラクターデザインには天野吉孝に変わり野村哲氏を起用するという新世代の夫人です。 その結果は前例のないものでした。 グラフィック、サウンド、シナリオ、その全てにおいて飛躍を遂げた本作は発売初年だけで国内 330 万本、北米 100 万本を記録し、最終的な全世界累計販売本数は 1500 万本超という歴史的な成功を納めます。 それは1作品の大ヒットという枠を超え、ゲーム士そのものの流れを変える転換点となりました。 JRPGという日本初のジャンルを世界へ押し広げ、さらに PlayStation というハードがその後およそ 10 年にわって市場の主導権を握っていく、その流れを決定付けたまさに傑作だったのです。 しかしその輝かしい成功の裏側で、スクエアは1つの大きな代償を抱え込むことになります。 PlayStation への移行という決断が、長年にわって気づかれてきた任天堂との関係に深い気裂を生むことになったのです。
確執そして合併へ (1997-2002)
FF7 が同世代のNintendo64で はなくPlayStationへの独占供給を決めた背景には高速の実現には CD-ROM レベルの容量が必要だったという技術的な理由がありました。 当時の任天堂 山内浩司社長もこの決定事態に対しては 機種の選択という意味では仕方がないと冷静に受け止めていたとされています。 問題は別の部分にありました。 その裏に隠れていたスクエアのいくつかの振る舞いです。 当時、スクエアは 96 年2月に 立ち上げた子会社デジキューブ主導のも コンビニにゲームソフトの情説コーナーを 設けることで自分たちで新たな流通経路を 築づこうとしていました。 Play atationへの移行と補を合わせる ように本格稼働したこの仕組みは自社に とって利益率の高い流通を整備するという目的に加え、ポスデータを活用して各店舗の 売上や在庫を効率的に管理することも狙ったもので、旧の流通システムとは一戦を隠す先進的な試みでもありました。 そして 経営人はその優意性を強調するかのように 当時のメディア取材の中で任天堂の流通を支えていた問屋組織「初心会」を引き合いに 出し自分たちレジキューブは「どこで何が何本売れているのかも分からないシステムと は違う」と発言します。 それは任天堂 の流通のあり方そのものを時代遅れの 仕組みとして切り捨てたようにも受け取れるものでした。 さらにデジキューブはスクエア製品だけを扱う仕組み ではありませんでした。 取り扱い量と ラインナップを拡大する狙いもあったのか 、PlayStation以降にあたって スクエアが他者ソフトメーカーに対し、「64はPlayStationに劣っている。PlayStationへ移行した方がいい」と働きかけていたという話まで任天堂の耳に入ってしまいます。 ここまで不切りが重なれば山内社長も感下することはできず激怒。 自分がいる間は式をまたせ ないと以後スクエアは数年にわって任天堂のプラットフォームからの事実上の締め出し出禁状態になります。 これとは対象的にこの PlayStation対当の時代の エニックスの福島市はドラゴンクエスト7のPlayStation発売にあたっては京都の山内市の元に2度足を運んで直接、説明をしており任天堂との関係を慎重に維持し続けていました。 こういった部分の 外交感覚。 いわば業界内で人ギをどう通すかという姿勢の差は後のスクエアエニックス誕生においても見過ごせない意味を持つことになります。
そして時は少し流れ2001年。 スクエアとエニックス両者にとっての厄年とも言うべき局面が訪れます。 まずスクエア側を襲ったのが映画版ファイナルファンタジーの大失敗でした。 ハワイに専用スタジオ、スクエアピクチャーズを設立し、フォトリアルな人物表現を全面に押し出したフルCG映画として、総額約 1 億 3700 万ドルもの制作費を投じたこの1台プロジェクト。 しかし世界での工業収入は約 8500 万ドルにとまり、最終的にスクエアは139億円の特別損失を計上し、創業以来初の通気赤字へ転落します。 この責任を取る形で当時トップを務めていた鈴木久社長は辞任、後任には異業種の野村証券で16年間のキャリアを積んだ経験を持つ和田洋一氏が新社長に就任しました。 加えてソニーから救済出資を受けることで なんとか最悪の事態は免がれていますが、この一見はFFブランドの成功体験が、やや何でもできるという過信へと変わっていたことを業界に通列に突きつける出来事でもありました。 一方その頃エニックス側でも深刻な事態が。 月刊少年ガンガンから編集者と作家が大量に離脱した、いわゆる「エニックスお家え騒動」です。 当時の出版部編集者数人が独立し、新たに月刊コミックブレイドを相関。 その過程でガンガンやガンガンウィングなどエックス観光の雑誌で連載を持っていた作家たちも次々に移籍していきました。 中でも ガンガンウィングは連載作品のおよそ8割を失うという壊滅的な打撃を受け、エックスの業績にも影響が及ぶことになりました。
このようにして2001年スクエアは映像 事業の失敗でエックスは出版事業の内粉で それぞれ足元を大きく揺さべられていきます。 両者を襲ったこの機器も要因の1つ となってこのタイミングですでに水面下で進んでいたとされる合併構層を急速に現実のものへと近づけていくことになるのです。
そしてそれからおよそ1年後の2002年11月26日、ついに両者は対等の精神に基づく合併を正式に発表します。 スクエアエニックス誕生の瞬間でした。 両者に共通していたのはゲーム業界を取り巻く環境の変化でした。 2000年代に入るとゲーム開発費は高騰し、大型タイトルを継続的に開発していくためには、より大きな資金力と経営基盤が求められるようになっていきます。
一方で今の感覚では少し想像しにくい話ですが、当時国内の家庭用ゲームソフト市場というのは縮小の一途にありました。 市場規模は 1997 年の約 5830 億円をピークに、2002 年には約 3360 億円まで減少。 わずか 5 年でなんと 4 割近く縮小していたことになります。 このまま手を打たなければ日本のゲーム産業そのものが、世界の競争の中で存在感を失っていくかもしれない。 裏を返せば国内市場だけを相手にしていれば成長できる時代でもない。 つまり両者の合併は弱点を保管し合い、本気で生き延びていくための現実的な経営判断だったのです。
そして合併後の新会社の社長へ就任した和田洋一師は実はこれに先立って謝罪の意を込めて任天堂の山内浩との面会にこぎつけていました。 和田氏は後年この時の対面を振り返り、銀髪上下紫のスーツ鋭い目でラスボス感が半端ではなかったと語っています。 最も関係修復は単なるトップ会談だけで進んだわけではありません。 任天堂は2002年当時山内市の私財による開発支援策ファンドQを立ち上げており、その流れの中でスクエア側のクリエイターにも声がかかっていました。 これが任天堂が差し出してくれた関係修復の糸口となり、そうして立ち上がったのが、ファイナルファンタジークリスタルクロニクルという作品。 FFナンバリングの本流をいきなり戻すのではなく、外伝的な新シリーズとして出発させることで ソニーとの関係にも配慮しつつゲームキューブのラインナップ強化にもつげる狙いがありました。 本作の開発を通じて両者は実務レベルで競業関係を再度結び直し、長く続いた断絶もようやく溶け始めていったのです。
一進一退 (2002-2009)
ドラゴンクエストとファイナルファンタジー、国民的タイトルを抱える2者 の統合に当時は夢の合併、ドラゴンファンタジーが誕生するのではとゲーマーを中心に大きな期待が集まりました。 ただその熱狂とは裏腹に車内の実態は決して甘いものではなかったそうです。 先述したようにスクエアは完全内製主義。 対する エニックスは自社に開発部門を持たない 外虫型パブリッシャー。 だからこそここが うまいことを保管関係になるはずだったわけですが、さすがにすぐの融合というのは難しかった形です。 実際合併後も ドラゴンクエストシリーズの開発は従来通り外部委託が続けられ、スクエアの内製チームとの本格的な統合は進みませんでした。 合併後初のドラクエナンバリングとなったドラクエ8でも開発には外部パートナーとしてレベルファイブが初めて本格起与されます。 2005年にはアーケード事業を抱えるTAITOをおよそ628億円で子会社化し、和田社長のもでスクエアエックスは 積極的な拡大路線を進めていきます。 狙いはFFとドラクエだけに依存しない新たな収益源の確保でした。 とは言っても主力 ソフトの力は合併後もなお顕在でした。 合併前から開発が進められ、2002年に サービスを開始したシーズ初のMMOオンラインゲームとなった FF11 は 2004 年頃に再生期を迎えピーク時のアクティブ加入者数はおよそ 50 万人に達します。 収益性という観点では2010年代前半の 時点でFF11は全シリーズの中でも最大級の利益を産んだタイトルとされており、月額課金形態の力を強く印象づける存在となりました。
さらに2005年12月には キングダムハーツ2もヒットを記録します。 元々キングダムハーツはスクエアとディズニーの業によって2002年3月に誕生したアクションRPGシリーズで、ディズニーの世界観とファイナル ファンタジーのキャラクターたちを共演させた移植の人気作でした。 続編となった 本作はディズニーとのコラボレーションをさらに発展させ、最終的には全世界 520 万本を売上る成功を納めています。
2006年3月に発売された FF12 も 注目を集めた1本でした。 開発の途中ではプロデューサーの松野市が健康上の理由で交板するという波乱もありましたが、結果として本作は全世界で 600 万本長を 売上る成功を納めます。 本作の内容は従来のシリーズ像からは大きく踏み出したものでした。 MMORPG的な発想を 色濃く取り入れ、それまでのオフライン RPG ではあまり見られなかったシステムを数多く導入していたため、当時の日本のユーザーにとってはやや先を行きすぎた作品として受け止められた面もあります。 そのため発売当時は意欲策として高く評価される一方で戸惑いの声も少なくなく賛否を呼ぶ作品にもなりました。
そして 2009 年 7 月にはドラゴンクエスト 9 が NintendoDS で登場します。国内の販売本数は 426 万本に達し、中でもすで違い通信はゲームの枠を超えた社会現象となりました。 とりわけ「まさゆきの地図」の名前で知られたメタルキングだけが出現するダンジョンは秋葉原を起点に口コみで全国へ拡散。 すれ違い通信の 累計回数は 1 億回を突破し、ギネス世界記録にも認定されるほどの熱狂を生み出しました。
FF13とドラクエ9が同じ決算年度に発売された2010年3月期、スクエアエニックスは売上高 1923 億円、営業利益 282 億円という和田体制化での 最高業績を叩き出します。 ただFF13 本作に対しては1本道すぎる「冒険感がない」といった厳しい批判も噴出します。 ミニマップ上の目標マーカーに向かって ひたすら走る長い廊下。 そんな指摘さえあったこの作品はグラフィック編長ゲーム性軽視というその後長い間机に突きまとう批判の原点となった作品でもあったのです。 そしてFF13が賛否を呼んでから10 ヶ月後、少しずつ荒わになり始めていたユーザーと開発側の感覚のズレはついにスクエニ市場最悪の酷評策という形で表面化してしまいます。
FF14の崩壊 (2010-2016)
2010年9月、シリーズ第14作目にし てFF11以来2作目となった MMO RPG ファイナルファンタジー14 が PC 向けにサービスを開始します。 しかし実際 に出てきた内容はFFの名を背負うには あまりにも厳しいものでした。 レビュー集計サイトメタクリティックのスコアは わずか49点。 コピー&ンドペーストが 目立つマップ。 の悪い戦闘選択するたびに いちいち読み込みが入る重いUI加えて フォルダ数1万以上という異常なクライアント構造が深刻な処理負荷化を招いていました。 そうした問題を山ほど 抱えたままさらに不具合やバグも残した状態でリリースされてしまった本作には、既存ファンと新規ユーザーの双方から厳しい批判が殺頭します。 20年以上をかけて気づき上げてきた FF シリーズへの信頼はわずか数週間で地に落ちてしまいました。 その影響はスクエア エニックスの株価にも及びサービス開始から2ヶ月後には和田社長が自ら謝罪分を発表するという入れの事態に発展。 会社は 開発体再生の刷新を決断し、移植予定だった PlayStation3 版の延期も 発表しました。 プロデューサー、ディレクターの公認には吉田直樹氏が就任。 今でこそシリーズを 代表する名物プロデューサーとして広く知られる吉田市ですが、当時はまだ対外的にはほとんど無名のクリエイターでした。
立て直しの現場にはとにかく問題が散席していました。 吉田市は後年失敗の根本原因について慢心とそれに伴うゲーム体験の軽視があったと振り返っています。 FF 11もうまくいったから大丈夫であろうというそうした慢心は14チームだけでなく その時のスクエアエイニックス全体にあった感覚だったそうです。 加えてゲーム体験 そのものよりもグラフィック品質への過剰なこだわり。 例えば植木1つにプレイヤー キャラクターと同等の 1000 ポリゴンを使うといったそうした本質からのずれが開発を根本から歪めていたわけです。
やがて吉田市はパッチ修正だけでは根本的な解決にならないと判断します。 下した決断は 1 からの作り直しでした。 旧 FF 14 の運営を続けながら新 FF 14 の開発 も並行して進める。 前例のない超負荷の体制の中、旧版は2012年11月にサーバーを停止。 そして翌年8月、新生エオルゼアとして生まれ変わった新たな FF14 が 老地を迎えます。 絶対に失敗が許されない再生プロジェクト。 その最前線に立った吉田市と開発人の執年は見事に結果で報われることになります。
ローンチ直後には サーバーがパンクし、ダウンロード版の販売を一時停止するという事態となり、発売たった2ヶ月で有料会員数は60万人を突破。 早くも 11 のピークを上回ります。 その後も新生エオルゼアは拡張パックを重ね、スクアイニックスを支える屋台骨として2026年現在まで成長を続けていきました。 まさに新生の名にふさわしい劇的な復活劇だったのです。
ただFF14の復活劇の裏でスクエニ全体の業績は急速に悪化していました。 FF14 の失敗に加え、2011年には東日本大震災の影響も重なって営業利益が前年費で 7 割以上減少し、準利益は120億円の赤字に転落。 この時からゲーム業界を取り巻く急速な情勢変化に対応しきれないスクエニの体制が浮き彫りになっていきます。
1つ目の変化は技術の進歩によって要求される開発レベルが上がったことです。 PlayStation3 などの普及を中心により高度なグラフィックの開発が求められるようになり、開発の長期化と予算の大規模化が状態化していきました。
2つ目はソーシャルゲームやスマートフォンゲームの対当です。 基本無料、アイテム課金、継続運営といった新しい ビジネスモデルが広がる中、家庭用の対策を中心に成長してきたスクエニにとってその変化への本格適用は簡単とは言えませんでした。
そして2013年3月期、スクエニはついに発足以来初となった営業赤字に転落します。 欧米向けの大型タイトルが並み不審に終わったことが直接の要因で、この不審の責任を取る形で和田社長は退任に追い込まれます。 皮肉なことに和田氏が作り直しを承認し会社を救うことになる神聖FF14が 老地されたのはその対任からわずか5ヶ月 後のことでした。
後任として就任した松田洋介社長はまず組織構造の抜本改革に着手します。 直価で複数のゲーム企画が動く従来の体制を改め、全車をおよそ11の事業部に再編。 各々の部門に企画や開発の判断を 任せる一方で売上や利益についても各部門が責任を持つ仕組みへと切り替えていきます。 さらにDNAやゲームスなどスマホゲーム開発に強みを持つ企業との共業も進め、FFやドラクエのスマホタイトルを相ついで投入。 新たな収益基盤の拡大を測りました。 しかしこうした立て直しが進む一方で、スクエニの看板であるコンシューマー分野にはまだ大きな火種が残されていました。 その象徴となったのが2016年11月 に発売されたFF15です。
信用失墜と再起動 (2016-2026)
16年11月に発売されたFF15。 本作は発表から実に10年近い歳月を経て世に出た作品であり、その圧巻のグラフィックは高く評価されました。 累計売上も全世界で 1000万本を達成しており、少なくとも商業面では大成功を納めたことは間違いありません。
しかしその一方で作品の中身 には厳しい視線が注がれました。 ストーリーの前日にあたる要素が映画や アニメなど外部メディアへ分散したことで 本編だけでは世界観の背景やキャラクターの同機が十分に伝わらず内容が薄い、分かりにくいといった批判が相ます。 さらに当初 4 本予定されていた DLC 追加シナリオのうち 3 本が制作ラインの再編に伴って開発中止となり、本作には未完成のまま売り出された作品という印象が強く残ることになります。 にも関わらず発売前の事前広告で必要なことはやり尽くしたといった強気な広告フレーズを掲載していたことから、これが過剰に炎上を招いてしまい、グラフィックだけ良くて中身が伴っていないという、過去にも向き合ってきたはずの批判を再び掘り起こす作品となってしまったのです。
とはいえこの時期のスクエニが不調一色だったわけでもありません。 コンシューマー分野では再浮上を期待させるヒットも続いていきます。 2017年30周年を超えた節目に 発売されたのがドラゴンクエスト 11 でした。 前作10がオンライン専用タイトルだっ たこともあり、本作は久々の完全な1人用ナンバリングとして大きな注目を集めます。 日本RPGの王道とも言える冒険の原点へと立ち帰ったその内容は多くのファンに歓迎されドラクエブランドの底力を改めて示すことになりました。
さらに同じ年には プラチナゲームズとの共同開発によるニヤオートマタも登場します。 口コみを起き点 に世界的な広がりを見せ累計1000万本 を突破。 前作が低セールスに終わっていたこともあり、当初車内の期待は決して高くなかったとされていますが、横太郎氏の 唯一無の世界観は海外でも強く指示され、机にとって新規IPとしては異例の成功を納めました。 またブレイブリーデフォルト シリーズなどを送り出してきた車内制作部 通称朝のチームが手かけたポクトパストラベラーはレトロなドット絵と立体的な背景 表現を融合させたHD2Dというビジュアル スタイルを打ち出し発売処で100万本を達成。 このHD2Dは以降机にの重要な ブランド表現として定着し、後のドラクエ3 リメイクへと繋がっていくことになります。
こうして2018年3月期には売上高 2504 億円、営業利益 382 億円を達成 。 2013年の営業赤字から見れば机には 見事なVジ回復を果たしたと言えます。 ただ企業の浮き沈みはどうしても繰り返し訪れてしまうものなのか。 再浮上を果たし たその先で机にはまたまた長い瞑想機へと 足を踏み入れていきます。 2020年代に入るとファイナルファンタジー7のリメイクを始め、個々の対策は引き続き大きな存在感を示す一方で 、会社全体の販売戦略には次第に瞑想も見え始めていました。 とりわけ2022年 の9月から12月にかけてはドラクエXオフライン、スターオッハーベステラ タクティクスオーガリボン ドラクエ トレジャーズ など 3 ヶ月という短期間に 10 本前後のタイトルが集中リリースされる状況となります。 限られたユーザーを自社タイトル同士で食い合うような構図も生まれ、スクエニ自身も後に自社タイトル感のカニバりによる機械損失があったと認めています。
加えてその多くは外部スタジオへの委託開発であり、品質管理の難しさも露呈していきました。 象徴的だったのが2022年3月の バビロンズフォールです。 8580円のフル プライスで販売されたオンライン専用 タイトルでありながらSteamでの同時接続ピークはわずか1188人。 発売から 1 年も待たずにサービス終了。 購入者がゲームを遊べなくなるという前代未問の結末を迎えました。
さらに翌年1月のフースポークンは日本で初集3.5万本に とまり、同年6月の FF16 も PlayStation5 独占という条件 があったとはいえ累計約350万本と期待を大きくした回りました。 さらにさらに 同年9月の大の大冒険インフィニティストラッシュではゲーム内容の大半がアニメの精死画に依存しているとして品質面で厳しい批判を受け、発売からわずか3 週間で新品価格が 1999 円まで下落する という事態にも至っています。
一方アプリ 事業はアプリ事業でロングセラーがなかなか喪失できず近年ではリリース間もなくしてサービス終了という例が相つぐ状況になりました。 ただそうした混乱を よそに社長の松田市は合併 20 周年という節めのタイミングでもあった2023年の年当所管でブロックチェーンという言葉を 14回 も用い NFT やブロックチェーン ゲームへの中力を繰り返し打ち出します。 トップが示す方向とユーザーが求めているもの。その認識のずれはあまりにも大きく、このタイミングからゲーマーの失望は決定的なものになっていきました。
かつて 積み上げてきた机に2の信用はFF14の 復活劇やオクトラの成功などによって一旦持ち直していたかにも見えていたはず。 しかしこの辺りでそのゆり戻しも限界を迎えます。
2024年3月期には開発方針の見直しに伴って221億円の特別損失を計上。 松田洋介社長もおよそ10年にわる在任を経て退任することになります。 ゲームファンの間であの時のスクエアエニックス合併は果たして正解だったのか。 そんな論争まで勃発し始めたこの時期。 別々の会社として競い合っていたからこそ生まれていた緊張感や相手に負けないようにという切迫感が少なからず合併によって 薄れてしまったのではないか。 そして結局 のところ合併によって約20年間の間 ユーザー側にはどんなメリットがあったのか。 そんな指摘が飛び交う中、松田市に変わって新たに社長に就任したのが桐志氏 です。 桐氏が掲げた方針は明解でから質へ の転換。 タイトル数を絞り込み、各作品の クオリティを確実に高めるというもので、2024年5月には中期経営計画再起動の 3年間を発表しました。 従来の事業部を 廃止し、一体運営型の組織に行こう。 外部 委託から車内の大型開発に軸足を移すこと を明言しています。 もう1つの大きな転換がマルチプラットフォーム戦略です。 24 年2月に発売されたFF7リバースは作品と しては極めて高い評価を受けましたが、PlayStation5独占という制約もあって販売本数の伸びには限界があり、リメイク第1作の勢いには届きませんでした。 そうした反省を踏まえるように 2024年11月のドラクエ3HD2D リメイクでは主要コンシューマー前期と PC2と幅広く展開されます。 桐生体制化以降業績にも改善の気兆差しが明確に出てきました。 2025年4月からの1年間の通気予想では大型タイトルを扱う HD ゲーム部門の営業利益が前年同期費でほぼ 3 倍に増加しておりから出戦略の効果が 本当に数字に現れ始めているのか業界は中視しています。
ただし課題がないわけではありません。 モバイル事業が縮小傾向にあること。 そしてドラクエ12や キングダムハーツ4といった次世代の大型 タイトルの発売時期がまだ見通せないことなど先行きの不透明さを残っています。
2026年はドラクエの40周年でもあります。 鳥山明市が2024年3月に、杉山高一氏が2021年9月に亡くなっており、ドラクエを支えたオリジナルメンバーの不在は否めません。 堀裕二氏は彼らなしで ゲームを作ることへの不安はあるが最善を尽くすと語りつつ、念頭メッセージで今年は 色々と発表できると思うと明言しておりドラクエ12の速報も確実されています。
エニックスの才能を発掘する力と スクエアの自分たちで作り上げる力。 その 2 つが融合してから23年。 その歴史は 成功と失敗、栄光と瞑想が何度も工作する 極めて破乱に満ちたものでした。 気流体制 の再起動の3年間。 その最終年で ある今年がスクアエニックスの次の10年を占う。 まさに少年場になりそうです。